凝集性とか,ガラスの天井とか

『凝集性のこととか』

今日は,ちょっと学級の具体から離れて思ったことを書いてみる。
どうしても,学級のことを考えると,はずれがちな子に目が向く。
何から外れるのかって考えると,学級の凝集性からなんだと思う。
最近,あまりよくない意味合いでの「凝集性」という言葉に出会うことが多い。
もちろん,過剰な凝集性が子どもにとって負担になることは,僕も同感。
でも,僕が最近思う「学級が安定してきたな」と感じるのは,学級に「凝集性」が少し生まれてきたなと感じているということなんだと思う。
つまり僕自身,学級にある程度の「凝集性」を欲していたという事だろう。
昨日の振り返りへの,幸恵ちゃんからのFBを読んで,「クラスの友達の手を借りる」って言葉に思うところがあった。
僕の学級にとっての次のステップは,ある程度の「凝集性」が生まれた集団に,まだ孤立状態にある子たちをつなげて,その中に居場所を作ってあげることなんじゃないかな。
もちろん,過剰にならない範囲で。
それはきっと,岩淵先生のFBにあるような「待ってたよ。心配してたよ。」という穏やかなものがいい。
子ども達みんなに,その気持ちで接してもらえるように,僕がその気持ちを持たなくちゃいけないんだと思う。
「凝集性」も,使い方によりけり,考え方によりけりで,心地いい使い方をしていけばいいんじゃないかと思う。


『ガラスの天井のこととか』

きっと,こうやって多角的に,客観的に自分の学級を見つめようとしている僕にも,自分で気付かない偏見やこだわりがあるんだと思う。
そして,僕以上に,学校という組織の中にはそういったものが山のようにあるんじゃないかと思う。
例えば,学力向上のためには学習の絶対量と質を確保するべきだとか,体力向上のためには業間体育を充実させるべきだといったことから始まる。
さらに,朝の会で歌を歌うことで一日を元気にスタートできるとか,長袖のジャージの袖からは手をきちんと出した方が生徒指導上良いとか,様々だ。
もちろん,否定はしないというか,否定できるようなデータなんて僕は持っていない。
でも,肯定するデータも持っていない。
ただ,多くの先生の経験則がそこにあるだけなのだと思う。
ただ,それらはおそらく多くの教員にとって,当たり前すぎて疑いもしない事なのだろうと思う。
例え,時にそのような事柄に対する指導で,児童の反発を招いたとしても,児童の生活意欲を削いだとしてもだ。
学校として,教師として疑うべきではないものとしている限り,そのつまづきには気付かない。
自分でも気づかない間に,自分の視野を広げようと立ち上がることを邪魔するガラスの天井を作ってしまっているんだと思う。
それは,マインドセットと言い換えられるかもしれない。
今の僕も,まだまだ分厚いガラスの天井を頭上にかぶせている。
今年の子ども達と接すると,それを強く感じる。
学校は,人間を良くも悪くも矯正する場だ。
その前提は,崩せないとしても,その矯正をより無理のない形で,より自然な形で実現させるために,ガラスの天井に気付き,取り払っていく作業を続けていくことが大切なんじゃないかと思う。