学ぶ楽しさは…

算数の時間に,我先にと問題を解いて丸付けに持ってくる。

昔は,それは素晴らしいものと思っていたけれど,最近はなんだか違うようだ。

我先にと,解こうとする姿勢を否定しているわけじゃない。

その意欲は,個々人の中であっていいと思う。

でも,それをあおるような教育はやっぱり違うと思う。

勉強が得意な子がすごくて,勉強が得意な子がそうではない。

多くの教師は,そんなつもり無いというかもしれないけれど,やっぱり根強いし無意識に表れているんだと思う。

そういった教育は,学ぶ楽しさをexitingなものとして捉えているように感じる。

分かったらうれしい。そう言いたいのはわかる。

でも,分からなかったら…。

どうなの?

分かるまで何度も繰り返す?

それとも諦める?

それとも大丈夫さと開き直る?

つまり,exitingな学びの裏には,不安がありストレスが有る。

それを考えたうえで,授業を作っているのだろうか。

子どもに声をかけているのだろうか。

 

学ぶことの楽しさについては,これまで何度か考えてきた。

学ぶことの楽しさは,やっぱりinterestingが一番。

でも,学校でそれを全員に味合わせるのは,難しい。

一人一人理解の進度はバラバラなんだから。

同じ5年生だって,4年生のテストを満点取れる子なんて半分程度しかいないように。

だから,interestingにならない時は,その空間がfunでありjoyであれば十分じゃない?

どんなに説明されても分からないことはあるけど,説明してもらう居場所が有るってことが価値になるんじゃないかな。

 

運動会すると体力は向上するのか?

運動会前と陸上大会前の体育の集中で、6月は体力テストをしたらプールまでほとんど体育ないじゃーん!

 

変だ。変だ。変だ。
どちらも必要なのは分かるけど、変だー。
これじゃあ、体力向上どころか逆効果ではないかー。

 

もう、ぶっつけ本番でもいい運動会やろう!

教科の特性は大切なんです

今年のチャレンジの1つは,教科の枠組みにとらわれない実践です。

社会科の学習は,総合的な学習で行う「地域の食べもの探検隊」と密接に関連させます。

「地域の食べ物探検隊」は,国語科の「比べて考える」説明文の学習の題材になります。

そして,その説明文は家庭科の「暑い季節と寒い季節の過ごし方」の比較に活用されていきます。

こうやって,教科の枠組みを行ったり来たりする実践を行うと,「教科の特性」をないがしろにしてはいないかと思われるかもしれません。

でも,反対に教科の枠組みを超えるからこそ,それぞれの教科の特性の必要性が明確なものになってきます。

 

だって,例えば国語科の説明文を学期に一単元ずつ,年3回行うことで「説明文って役に立つ!」という実感がどれほど得られるでしょう。

1学期にはこんな説明文を学習したよね?と2学期に子どもに聞いても「あー!そういう学習したしたー!」程度ではないでしょうか。

もしくは,家庭科で夏に「暑い季節の過ごし方」の学習を体験して分かったことや感じたことを,どれだけ生み出し言語化できるでしょう。

教科書に書いてある,衣服の素材や袖のつくりをなぞって終わりではないでしょうか。

 

組み合わせることで,「夏に冬服を着ると暑い!その原因は,冬服のどんなつくりの工夫からなのか?」と実際に体験して比較検討することの有効性を感じることができます。

そして,感じたことはきっと人それぞれなはず。

だから,自分が「比べて考えた」ことを言語化して伝えられる説明力が必要になってくるでしょう。

もしかすると,教科書にはない"秋服"や"春服"の選び方にいかせることが見つかるかもしれません。

 

教科の枠組みに縛られないからこそ,教科の特性,教科のありがたみが感じられるようになるんだと思います。

そう気づいてから,「あー,結局今までの実践の多くは,『やらねば』『やるもんだ』の実践でしかなかったなぁ。』と反省しています。

 

おぎやはぎが好き

昔から、お笑い芸人の中では『おぎやはぎ』が1番好きです。

逆に嫌いなのは、具体名はなかなか上げられないけど、キャラで何とかしようとしてる芸人。

おぎやはぎの好きなところは、自然なところです。

飾り気が感じられなくて、きっと私生活でもこんな感じなんだろうなぁと分かります。

本当に面白い芸人さんって、みんなそうだ。

さんまさんも、いつも元気でテンションが高いけど、私生活でもそうだっていうし。

笑いをとるために、無理をしている感じがしません。

教師にも、そういうタイプの先生はいますね。

そんなところに、すごい好感が持てます。

で、自分の話だけど。

なぜだか教師って飾りたがります。

大学でも、教師は演者だみたいなこと教わりましたし。

でもそれは、半分合ってて、半分違う。

他人を演じるんじゃなくて、自分らしく表現するんですよね。

だとしたら演劇も一緒ですね。

一流ってのは、他人の人生を自分らしく表現しちゃうでしょうし。

まぁ、演劇には詳しくないのでよく分かりませんが。笑

とにかく、教師は飾りたがります。

子どもに見透かされないようにとか、なめられないようにとか言って。

でも、そんな人が、自分の事真剣に考えてくれてる!って子どもは思いますかね。

自分が子どもなら、そんなギラギラした先生はちょっと苦手かも。

飾らない、素直、あるがまま。

そんな、おぎやはぎみたいな教師に憧れるんです。

凝集性とか,ガラスの天井とか

『凝集性のこととか』

今日は,ちょっと学級の具体から離れて思ったことを書いてみる。
どうしても,学級のことを考えると,はずれがちな子に目が向く。
何から外れるのかって考えると,学級の凝集性からなんだと思う。
最近,あまりよくない意味合いでの「凝集性」という言葉に出会うことが多い。
もちろん,過剰な凝集性が子どもにとって負担になることは,僕も同感。
でも,僕が最近思う「学級が安定してきたな」と感じるのは,学級に「凝集性」が少し生まれてきたなと感じているということなんだと思う。
つまり僕自身,学級にある程度の「凝集性」を欲していたという事だろう。
昨日の振り返りへの,幸恵ちゃんからのFBを読んで,「クラスの友達の手を借りる」って言葉に思うところがあった。
僕の学級にとっての次のステップは,ある程度の「凝集性」が生まれた集団に,まだ孤立状態にある子たちをつなげて,その中に居場所を作ってあげることなんじゃないかな。
もちろん,過剰にならない範囲で。
それはきっと,岩淵先生のFBにあるような「待ってたよ。心配してたよ。」という穏やかなものがいい。
子ども達みんなに,その気持ちで接してもらえるように,僕がその気持ちを持たなくちゃいけないんだと思う。
「凝集性」も,使い方によりけり,考え方によりけりで,心地いい使い方をしていけばいいんじゃないかと思う。


『ガラスの天井のこととか』

きっと,こうやって多角的に,客観的に自分の学級を見つめようとしている僕にも,自分で気付かない偏見やこだわりがあるんだと思う。
そして,僕以上に,学校という組織の中にはそういったものが山のようにあるんじゃないかと思う。
例えば,学力向上のためには学習の絶対量と質を確保するべきだとか,体力向上のためには業間体育を充実させるべきだといったことから始まる。
さらに,朝の会で歌を歌うことで一日を元気にスタートできるとか,長袖のジャージの袖からは手をきちんと出した方が生徒指導上良いとか,様々だ。
もちろん,否定はしないというか,否定できるようなデータなんて僕は持っていない。
でも,肯定するデータも持っていない。
ただ,多くの先生の経験則がそこにあるだけなのだと思う。
ただ,それらはおそらく多くの教員にとって,当たり前すぎて疑いもしない事なのだろうと思う。
例え,時にそのような事柄に対する指導で,児童の反発を招いたとしても,児童の生活意欲を削いだとしてもだ。
学校として,教師として疑うべきではないものとしている限り,そのつまづきには気付かない。
自分でも気づかない間に,自分の視野を広げようと立ち上がることを邪魔するガラスの天井を作ってしまっているんだと思う。
それは,マインドセットと言い換えられるかもしれない。
今の僕も,まだまだ分厚いガラスの天井を頭上にかぶせている。
今年の子ども達と接すると,それを強く感じる。
学校は,人間を良くも悪くも矯正する場だ。
その前提は,崩せないとしても,その矯正をより無理のない形で,より自然な形で実現させるために,ガラスの天井に気付き,取り払っていく作業を続けていくことが大切なんじゃないかと思う。

ぼちぼちいこか

今日の放課後のこと。

Aさん「先生,○○くんがカードゲーム持ってきてますよ。」

Bさん「そうそう,てか前からじゃない?」

わたし「そっかぁ,それは困ったなぁ。」

A・B「先生,全然困ったように聞こえませんけど。」

わたし「えっ、そう?いやぁ,困ってるよ。まじで。」

A・B「うそだぁ。だって先生笑ってるじゃん。」

わたし「いやぁ、困ってもいるけど、安心もしてる。」

Aさん「えっ、なんで?」

Bさん「意味わかんないんだけど。」

わたし「だって、お前ら、他の人のこと気にするようになったじゃん!と思って。」

A・B「前から気にしてるし、言っても意味ないから言わなかっただけ。」

わたし「そっかぁ、教えてくれてありがとね。よーし、明日は抜き打ちで持ち物チェックだなぁー。」

A・B「えー、それは困る!!」

こんなやり取りがありました。

確かに誰かが、学校にカードゲームを持ってきているなんて大問題です。

それに二人は、その子たちに直接注意をすることができるならばその方がいいでしょう。

でも、少し前まで授業中にチョロQで遊んでいることを、見て見ぬふりしかできなかった子たちです。

そんな子が、少し他人に興味を持ち始めた。

それだけで嬉しかったのです。

また、その小さな一歩が目に見えるというのが嬉しかったのです。

きっと私は、子どもを引っ張り上げようと思えば、できるのかもしれません。

褒めて、褒めて、叱って、諭すような良い話をして。

褒めて、褒めて、叱って、また良い話をして。

でも、そこに空虚さというか、不誠実さというか、胡散臭さというか。

そういった思いができてしまいます。

だから今年は、コツもネタも使わず、子どもに合わせてみようと思っています。

だから今日の出来事は、正直に、嬉しかったのです。

エレベーターに乗る様にぐんぐん伸びる大きな成長も魅力的ですが、私は階段を一歩一歩上がっていく実感を伴いながら過ごしていくのが好きなのだと思います。

一か月で、やっとここまで。

さて、また一月後にはどうなっていることやら。

何はともあれ、楽しんでいることが子ども達の安心につながるかと思います。

ぼちぼち、いきます。

 

学級にあったブラウン管テレビのこと

私の教員生活は,これまで(そしてきっとこれからも)先輩方から頂くたくさんのお叱りの経験とともに成り立っています。

2年前に現任校に異動してきた時にも,初日に教室に設置してあったブラウン管のテレビを空き教室に移動し,先輩の先生からお叱りを受けました。

大きな可動式のテレビ台の上に,埃をかぶってどっしりと鎮座する24型程度のブラウン管テレビは,パソコンと接続することもできず,子どもと見るには画面が小さく感じていました。

その割に,教室前のスペースを大きくとるので,唯一必要になる毎学期に1度だけ催される放送委員会による校内テレビ放送(昨年は1度きり)の時だけ教室に入れればいいかと思っていたのです。

しかし,私がその立派なテレビを自分の教室から空き教室に移動するため,廊下にやっとこさ出たところで,先輩の先生がいらっしゃいました。

「テレビは教室で使うから,教室の中に入れておいて。」

「あ、でも。授業ではプロジェクターを使うので…。」

「授業はどうか知らないけど,先生だけ勝手に変えられると困るんだよね。」

「そうですか。すいません。わかりました。」

かくして私の教室の横では,昭和から平成初期にかけて人々の生活を支えたブラウン管のテレビが,温かくも寂しそうなまなざしで,今はもはや『おじいちゃんの部屋にあるテレビ』として己を認識している子ども達の学級生活を,ひっそりと音を立てずに見守ることになりました。

あれから,1年と少し経ちます。

私にも後輩ができました。

先日ふと,「そういえば,後輩くんは,ブラウン管のテレビどうしているだろうか。」

と気になりました。

教室に行ってみると,そこにはテレビ台はなく,テレビは隣の空き教室で眠っていました。

それから,他の教室にも行ってみましたが,同じようにほとんどの教室においても,テレビ台は空き教室に移動されていました。

これで,私が後輩くんに「テレビは,自分の…」という指導を加えなくても済むと,ほっとすると同時に,学校のルールというものは,かくも自然にうつろっていくものかと気付かされました。

そういえば,私はちょっと前まで,何の悪気も無く旅行のお土産として子ども達にお菓子を配っていました。

自分が小さいころ,担任の先生が買ってきてくれた旅行先のお菓子が,学校でもらえたというだけでとても嬉しく,(失礼かもしれないが)普通のお菓子がものすごく貴重でおいしいもののように感じていました。

今は,多くの学校で,子どもにアレルギー症状が出ると大変だから等の理由で禁止されています。(これについても,私は先輩からこの年になってご指導いただいた。)

もちろん,禁止の理由は正当で,非の打ちどころはありません。

この規則を守れば,私も学校も安全安心でいられます。

それ以外にも,学校の決まりのおかげで教員としての自分の立場は守られるようになりました。

でも一方で,自分が子どものころに先生にしてもらった多くの嬉しかったことが,今はほとんどしてあげられなくもなっています。

それに,私や学校の安心安全のために,自分が子どものころ先生にされた嫌だったことを,破向かうことのできない強大な大義名分のもと,心を痛めることなく子どもにさせることもできるようになりました。

そんな時,自分はこんなことをするために…でもそれもこの仕事を選んだ宿命かと考えを巡らせてしまいます。

正当で非の打ちどころのないものが嫌いという,根っからのひねくれ者体質は,大人になっても抜けきらないのですね。